1877年(明治10年)2月に西郷隆盛が私学校党と共に挙兵した。
その数約1万3千人。
日本最後の内乱、西南の役
その最激戦地である田原坂は、なぜ激戦地となったのか
3月4日に官軍と薩軍が田原坂で激突してから、3月20日までの17日間の死闘が繰り広げられた田原坂を訪れ、わかったことを綴る。
薩軍はまず熊本城を包囲するも陥落できなかった。
そこで官軍の援軍を阻止するため、植木、山鹿を抑え、高瀬へ進軍した。
しかし北方から南下してきた官軍は高瀬を、次いで木葉を占領した。
薩軍は退却し、田原坂に陣を築き、官軍を迎え撃つこととなる。
なぜ田原坂か
田原坂は標高差80メートル、距離にして1500メートルの曲がりくねった坂道であった。
また、田原坂の道は凹道(堀切道)となっており、坂道の両脇は小高くなっていた。
坂道を通ろうとするものを攻撃するには非常に有利な地形であった。
これは加藤清正の熊本城築城当時、戦術上の意図でわざと作ったものであるという。
そして田原坂は、熊本城へ唯一、大砲や弾薬を運べる3〜4メートルの道幅があった。
つまり、官軍は熊本城へ通じる田原坂を通らざるを得なかった。
このため薩軍は防御力を田原坂に集結し、
さらに官軍はそれを知りながら幾度となく正面から激突を繰り返した。
攻めるに難く、守るに易しい地形に官軍は苦戦を強いられ、激戦は昼夜問わず17日間に及んだ。
田原坂での死傷者は4千余人。
約8か月間に渡った西南戦争全体の戦死者は約1万4千人であり、
その3分の1が田原坂の17日間であった。
後に政府は、「もしこの坂を官軍が突破できなければ、薩軍は南関を破り北方へ進出し、直ちに政府に不満を持った者たちが必ず隙を見て立ち上がり、禍いは計り知れなかったであろう。」という内容で、勝利の意義を述べた碑を建てています。
実際に訪れると
田原坂は舗装されており車で通ることができます。
官軍が進んだ北方から進むと、道は通説通り3〜4メートルの道幅で、両脇はほぼ垂直に2〜3メートル高くなっています。
そして木々や竹林に囲まれ、日中でも薄暗く、不気味な雰囲気があります。
車で走れば数分のこの坂道を突破するために、突破させないために、新しき国を憂う若者たちが命を燃やし戦ったのだと思うと、自分の命の使い方を考えざるを得ません。